To myself in the busyness






「最近忙しくて」





その言葉を最近よく口にしませんか?

楽しいことで忙しいとき、そんな言葉を使いますか??

忙しさの中で自分を見失いそうなとき、大切なことを思い出せるように、と思って記録
2015/04/06





これは私の個人的備忘録です。
姉妹作「To myself in the dark」に比べれば汎用性は高いかもしれませんが、私の個人的意見にすぎません。




読む人は自己責任でお願いします。一部の人を不快にする内容かもしれません。。。いやきっと不快にします




他の私のページみたいに、笑いが基本調になってません。
面白くないです。
特に、社会的責任を何よりも大切と考える人は、読まないほうが賢明です。



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ひとつひとつの言葉の重み

言葉は、読む人にとっても書く人にとっても、重いときもあれば、軽いときもあります。下にある、ひとつひとつの言葉を、単語を、重く受け止めて読んでみてください。

楽になるから「忙しい」と言う


 「最近忙しくて、全然○○できない」

上の○○に入る、忙しくてできないことの代表格といえば、「研究」「運動」「趣味いろいろ」「落ち着いてゆっくり考える」あたりではないですか?

「忙しくて」というのは、本当にやりたいことは別にあるのだが、小さな雑用がたくさん積み重なって時間を取られるので出来ない、という意味で使われます。 高校生や大学生だったとき、貴方はそんな言葉をあまり口にしなかったですね。高校や大学時代には小さな雑用はあまりなかったのでしょうか?

そんなことはないはずです。宿題するとか、通学するとか、買い物にいくとか、ゴミを出すとか、食事をするとか、生きていくうえで雑用は無限にあります。 仕事の雑用が忙しい、というとき、高校や大学時代の雑用との大きな違いは、責任かもしれません。 責任というのは、社会的なものです。端的にいえば、仕事の雑用が忙しいというのは、自分に責任のある仕事がたくさんある、という事とほとんど同義です。

雑用とは言え責任ある仕事を背負っているのだとしたら、なんらかの意味で社会に貢献してるのかもしれません。それ自体はいいことかもしれません。 しかし「最近忙しくて、全然○○できない」と口にした瞬間、自分では気づいてなくても


私はこんなに沢山責任を背負っているのだから、○○できなくてもしょうがないのだ


と思っています。○○できない自分に焦りや苛立ちを感じていて、それに対して言い訳が欲しい、諦めているんです。さらに言えば、この「最近」という言葉も便利です。最近は忙しいからできないけど、将来にはできる、と暗に言っています。その将来とは何年の何月何日ですか?

「最近忙しい」という言葉は、  諦め  と  言い訳  の塊です。

その諦めと言い訳を受け入れてしまったら、貴方は一生忙しく、そして本当にやりたいことを出来る日は永遠に来ません。

自由と判断と忙しさと

To myself in the dark で貴方は書きました
 
 1日でも寿命が残っている限り、いつでも新しいことができます。
 
人生は自由です。それは毎日自分の意思で判断して生きているということです。1日の長さは常に等しく24時間です。その中の1時間を何に使うかは、貴方の判断であって他の誰にも邪魔されるべきでない自由です。

仕事にはいろんな側面があります。お金を稼ぐことと、人生の生きがいを得ることの2つが、人が仕事をする理由でしょう。やりたい仕事もあれば、やりたくない仕事もあります。貴方にしか出来ないこともあれば、誰にだってできることもあります。意味のある仕事もあれば、無意味な仕事もあります。やりたくもない無意味な仕事、と自分が判断した仕事をやるために1時間を使ったとき、それもまた貴方の判断の結果であることを決して忘れないでください。

責任と忙しさと


 しょうがない
 やらないわけにはいかない

やりたくもない雑用に時間を使うとき、それはほとんど間違いなく、責任を感じるからです。責任とは社会的なものです。法的には契約上の義務から責任が生じます。しかし普通は、周囲の人の期待が責任感を作っています。実は貴方も、周囲の人に無意識に期待し、責任感を作る片棒を担いでいます。人の心がよく分かる人は、周囲の期待をより高頻度に感じるでしょうから、責任感をより強く感じるのではないかと思います。そういう人は、周囲の期待をより正確に認識するでしょうから、より効率的に責任を果たすことができるでしょう。人の心がよく分からない人は、その逆でしょう。

貴方が車の運転をするとき、短時間に同時平行でリアルタイムに多くのタスクを処理しています。混んでいる道を運転するとき、他の何かを集中して考えることができないくらいに、脳はフル回転しています。アクションゲームに没頭しているときも、スキーで爆走しているときも、脳は0.1秒単位でフル回転しています。しかしそれを「忙しい」とは感じません。物理的な意味で時間に余裕がないことと、忙しいこととは、実は無関係です。

責任が忙しさを作ります。そして責任とは、人間達の心が作り出す怪物です。

自由を


 自由に生きたい
 知らないところに行きたい、世界を知りたい
 夢を追いかけたい
 知らないことを、もっともっと知りたい

その少年の気持ちを実現するために、貴方はどれほど多くの犠牲を払ってきましたか? どれほど多くの人を巻き込み、泣かされて、そして泣かせてきましたか? なぜ結婚して家庭を持たなかったのですか? 1日の中の1時間は、貴方のその判断が作った1時間です。その1時間に何をするかは、貴方の判断です。貴方の判断は、貴方の人生に関わった人たちに、そして何より、過去と今と未来の自分自身に、胸を張って答えられる判断になっていますか?

時間の価値は命の価値に等しい。人生を70年とすると、それは約61万時間です。61万時間の中のどの1時間も、決して二度とは取り戻せません。61万時間のうち、何万時間を何に使う予定ですか? 本当にやりたいことをやるために必要なお金を稼ぐためには、あと何万時間必要とする予定ですか? そして、何万時間の自由のために、貴方は今のような人生を設計したのですか?

サラリーマンの友人と「最近忙しいけど、そっちはどう」「こっちも忙しいよ」という会話をよくします。しかし、神様に貸してもらった命をお返しするときに、神様に 「どうだった?」と聞かれて、「忙しかった」と答えるつもりですか? 楽しいこと、本当にやりたいことをやるために、時間を、命を使うべきです。

忙しさ v.s. 勇気と自信

もうひとつ、忘れないように。

 「忙しくて、本当にやりたいことができない」

それは言い訳だと書きましたが、この言葉が持つ、別の恐ろしさがあります。それは、本当にやりたいことを遣り遂げる自信がなくなった、という可能性です。

忙しさ―あるいは責任という怪物―に身を任せて、流されて生きるのは気楽です。社会的責任さえ果たしていれば、他者は貴方に満足するでしょうし、貴方の人生のことなどに興味もなければ、そもそも分かりません。他者の期待に答えるというその生き方は、かなり社会的な生き方です。それで幸せになれる人も多いでしょう。しかし多分、貴方は違う。

自由に、本当にやりたいことをやるために、例えば夢の実現のためにお金を貯めるために仕事をしていたとして、それで10年後にお金が貯まったとします。しかし10年間の社会的な生活は貴方を変えます。自分と他者の責任についてより敏感になり、10年前には持たなかった正義感を持っているかもしれません。そして10年の社会的生活は、自分でゼロから何かを始める自信を毎日少しづつ削り取っていきます。加齢による体力の衰えや、価値観の硬直化がそれに拍車をかけます。

新しいことをゼロから作り上げる人はヒーローです。
なぜなら、誰にも期待されなかったことを自分から作り上げることは、社会的責任には含まれていないからです。

10年間の社会的生活はそのために必要な経験をもたらしたはずです。時間は貴方に知識と経験を与えると同時に、自信と健康を奪っていきます。知識と経験は、可能性の数字を大きくすると同時に、その数字をより正確に評価するメジャーを与えます。その数字を見たとき、それでも可能性にかけるために必要なのは勇気と自信です。勇気と自信もまた、人間の心に備わる怪物です。失敗するかもしれない大きな挑戦に、一度しかない人生を賭けようというのですから。でもそれは、神様に貸してもらった命を、貴方にとって本当に意味のあることに挑戦できるように、神様が命にセットでつけてくれた、とても大切な怪物だと思います。



あとがき
何やら説教くさい文章になってしまいました。字数も多いし。
To myself in the dark を久々に読み返してみて、我ながらあれは名作だなと思います。あれには到底およばない。。。
でもいつの日か、To myself in the busyness を読み返したとき、未来の自分に何かを伝えることができたらな、と思っています。
この作品を作るのに、61万時間の中の3時間ほどを使いました。100%の満足ではないけれど、最近の生活の中では意味のあることに時間を使えたと思っています。



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